白と黒の境界線

日々徒然をネットの隅に残す記録簿 気まぐれに更新中

マイノリティ(少数派)でも自己主張できる時代

最近、ネット界隈を賑わす様々な話題。

社会階層がどうだの貧困JkがどうだのポケモンGOがどうだの。

今までずっと仕事しかしていなかった私にとって、ある意味それは新鮮な体験でした。

かつては発言権すら許されなかった少数派(マイノリティ)も主張できる時代であったと今更のように実感するのです。

人の考えは全てを分類することができない

どうも分類が大好きな元したっぱ図書館員です。

図書館って全ての本が数字で分けられているではないですか。

たとえば、ビジネス関係は3門、料理は5門、小説は9門など。

ただ、人の考えはそんな簡単に分類することができないですね。

対立する考えはもちろんありますし、同じことを主張しているようでも、やはり個々ですべてが同じわけではない。

わかりやすく集団を色づけするために、〇〇主義や〇〇派なんて囲いづけることは昔からありますが、そういう学派みたいなものは後世にも残るようなものです。

力のある思想は多数派と同等と考えても良いのではないでしょうか。

しかし、今日はほんのちょっとした発言でも一度火をつければ力を持つようになります。

マイノリティでも自己主張できる時代、少数派があたかも多数派のように力を持つこともあります。

多様化した意見をこれは〇〇主義、これは〇〇派なんて簡単に分類することはできないでしょう。

現代では多数派は少数派を沈黙させない

ドイツの社会学者にE.ノエル・ノイマンという人物がいました。

彼女はマスメディアの世論形成についてこんな考えを残しています。

マスメディアは、一般に多数意見を報道することが多い。

この報道は単に「多数意見は何か」を伝えるだけではなく、

報道に接した人が少数意見と気が付けば他者の前で発言することをためらうようになる。

反対に多数意見と同等であった者は自信を持って自分の意見を主張するようになる。

こうして少数意見は、あたかも螺旋をたどるように、しだいに沈黙へと追いやられていくのである。

これを沈黙の螺旋という。

(参考:まるごとパスワードNEO)

マイノリティはこうして社会の場に現れること自体が少なかったのです。

昔はテレビや新聞の報道はかなりの力を持っていたと思いますし、多数意見に従わなければ「非国民」と称された時代もありました。

けれども、現代では私にとっては人道に外れるような道徳的ではない意見も溢れています。日本には思想および良心の自由がありますから、内心にいかなる意見を抱いていても国家権力から介入されることはありません。※他人に迷惑をかけたら別です。

かつては沈黙に追いやられていた意見も爆発的に広がっていく可能性を帯びています。貧困jkの報道も溢れた情報を取捨選択し、自分自身で判断をできるようになった現れではないでしょうか。そういう意味では、本当に「自由な時代」ですし、我々は常に考えて自己主張をしているといって良いでしょう。どの集団に属するのか自らで判断しているといっても良いかもしれません。

日本人は自己主張しないとはよく言われますが、必ずしもそうとは私は思いません。日本文化にそういった特徴があることは事実ですが、元来、人間は社会的生き物ですから。

私は、どんな人間でも他者の真似をして自我を形成する、他者の存在の中で様々な仮面を被り、その役割に応じたパーソナリティーを使い分けていると考えていますので、全くもって他者から影響を受けない人はいないと思っております。

マイノリティとマジョリティの共存時代

私のようなマイノリティの塊ですらこうしてネットの片隅で自己主張できるわけですから良い時代になったとしみじみ思います。この雑文を見てくださった方、貴重な時間を使っていただき、ありがとうございます。

私はかつて「社会的弱者」でありましたが、こうして地獄から這いずってくることができました。未だに地獄の淵で喘いでいる方々を救う蜘蛛の糸となるために勉学を続けております。再び公共サービスに携わるために、マイノリティでも生きております。

皆さんに幸あれ。